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なんだか書くことが無かったので、少し興味があったことについて書いてみようと思ったり。by Rey

『富士山を動かすにはどうすればよいか?』

外にて、今日は簡易更新。(ああ。副会長のことを書くって言っていたのに。)

これは、Microsoft社の入社試験の一部であるらしい。いわゆる、『相手の機転を見る問題』というやつだが、あなたはどう答えるだろうか?


これだという答えは当然のことながらあるまい。
そこで、他の人はどういう答えを考えるのか、そう思って、この話題をググってみる。

すると、興味深い回答を見つけた。
『何もしない。』

大陸移動説というやつだ。地球のプレートは少しずつ動いており、今私たちが生活している間にも富士山は動いている。そういうことだろう。
なるほど、確かにその理屈なら富士山は動いている。
だが、これは動かしたということになるのだろうか?

この問いは、なかなか深いものを内包している。

たとえば、『動く』という考え方はどこからどこまでを含んでいるのか?

私が車に乗っているとする。車が走り出した時、自分が移動していることをいかにして確認するか?

外の風景が変わるからという答えはあてにならない。なぜならば、それが証明するものは『自分が動いている』ことではなく、『風景が動いている』ことの証明にもなりうるからだ。
だからこそ、物理の世界は、この二つのどちらに視点を置こうとも、同じ解答が導かれるよう、さまざまな工夫が施されている。

ならば、この『富士が動く』という概念は、いったい何を持って確認するのか?

『大陸が動く』という概念は確かに、地球規模からみれば、動くということになるであろうが、自分という視点から見れば、富士山は動いていることになるであろうか?

この問いの難しきは、おそらくその方法に無いのだと思う。すなわち、何を以て『動いた』とするべきか?この一点に議論は集中するのではないか?

この『何もしない』と答えた解答者は地球という規模に、視点を置き、それを『動いた』とした。
では、あなたはどの点を以て、『動いた』と考えるか?

私は『そこに無い』ことを『動いた』としたい。すなわち、あるべき場所にそれが無いことを以て、『動いた』と確認する。
では、その方法とは何か?

おそらく、それは即物的ではなく、意外に情緒的側面から攻めたほうが、解答を導きやすいのではないか?
富士山は、それが富士山ではなく、われわれが、概念的にその山を富士山と名付けたに過ぎない。では、なぜ我々はそれを知っているのか?
容易である。教えられたからだ。
ならば、八ヶ岳が、富士山と教えられたら、100年後の人々は、今の富士山を富士山と認識しているだろうか?

『教育、そして模範』。それがすなわち、私の答えである。
その教育を施すようになれば、我々は三世代もせぬうちに、富士山の青い姿を忘れるようになるだろう。山梨と静岡の間の山が富士山ではなく、山梨と長野の間に富士山は移動するであろう。


教育のすさまじき本質はここにあるような気がしてならない。

今日は、少し真面目な話でした。
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